My Story - Naoko Chikahira

Naoko Chikahira

1993年11月28日生まれ🌞 射手座♐️
3人姉弟の長女として愛媛県の最南端、愛南町で生まれました。小さな頃から活発で、小学校から帰ると仲の良い近所の友達といつも外で遊んでました。缶蹴をりしたり、ケードロしたり、おやつには梅とけんこうイカ(カムカム)ばっかり食べてて、、、とっても健康的だった!笑。小3の時には吹奏楽に入ってバリトンを弾きつつ、小学校単位で出る水泳大会や陸上大会にも出たり、思い返すと、音楽もスポーツも大好きな女の子だったんだな〜って。小6では100m走で県一位のなり全国大会に出場もしました。バスケを始めたのは小5の時。みんなより始めるのが遅かった理由は、吹奏楽部との掛け持ちがダメだったから😢当時から身長の高かった私(170センチ)は、バスケの先生から誘われたり仲のいい友達がやっていたこともあり、吹奏楽部を辞めてミニバスを始めることに!確かに170センチもあって吹奏楽部いるのは冷静に考えてモッタイナイ!!先生も外部コーチたちもとても良い人たちで楽しかった記憶しありません🏀校舎走ったり、山道走りに行ったりきつい練習もあったけど、、、。

 

バスケット漬けの学生時代👧

地元の中学校にバスケ部がなかったため、バスケを続けるには校区外の学校に行くしかなかったのですが、私が選んだ学校は実家から車で2時間離れた松山市にある中学校。色んな人が協力してくれて、バスケ部の先輩のお家に下宿させてもらいながらその学校に通っていました。今思うと12歳でその決断をした私、何を考えてたんだろう、、、笑。今の私なら絶対に家から通える学校を選びます。でもこの中学校を選んだ事は間違いではなかったなと思います。徹底的に基礎を叩き込まれた。今身に沁みて思うのは、スポーツも人生も何事に対しても基礎がとても大事だということ。(なので私のプログラム”The Arena” でも、まず学ぶ姿勢、人生を制する基礎からからやっています🗽)入部したては本当に毎日大変でした。ドリブルのつき方やフットワークから細かく指導されました。全然練習についていけなかった。でも持ち前の素直さと負けん気で、ぐんぐん成長。中学2年生で全中ベスト16、3年生の時には全中3位になりベスト5にも選ばれました。その活躍もあり、U-15にも選出され、初めての海外遠征に。(確かカナダだったかな?)頑張ったら頑張った分だけ上手くなれるということ、また、見たことのない世界を知る楽しさをこの時に学びました。だから今でも、新しいことへチャレンジが好きなのかも。自分の知らないものを、知らない世界を知れるから。いつまで経っても好奇心旺盛ガールです👧🎶 高校は愛媛にある強豪校、聖カタリナへ。中学時代に目標としていた”日本一” を叶えたくてやる気満々で入学したのを今でも覚えてます。高校3年間は年代別の代表活動が忙しく、学校にもあまり行ってないかも??授業を出ていないのにテストを受けるという事も、、、(でもぜか点数は良かった笑)3年間でシンガポール、タイ、インド、イタリア、フランス、アメリカに行ったかな?若いうちから、すごく貴重な経験をしました。ただ、怪我も多かった。大げさかもしれませんが、海外遠征に行ってるか怪我をしてるかみたいな❤️‍🩹1年生の時にインターハイ3位になりましたが、それ以外はあまり良い結果を残せませんでしたし、最後は椎間板ヘルニアで思うようにプレーができず。。。ただ最後の試合は出たかったので、高校最後の集大成であるウインターカップが終わってからオペをしました。海外を知ったという意味でも、色んな怪我をしたという意味でもたくさんの経験を積んだ高校3年間だったと思います。

プロ時代🏃‍♀️

高校卒業後、プロに行くという選択をした私は、静岡県にあるシャンソン化粧品というチームへ入団します。トータル5年間このチームに在籍するんですが、本当に色々あり濃い5年間でした。オペ後だったので、リハビリからのスタート。ですが、そんなに焦りもなかったんですね。なぜなら、新人だし試合にはまだ出れないだろうと思っていたから笑。下積み期間として、下っ端の仕事を頑張ろうという感じだったんです。ですが、それがですね、いきなりスタートで使われるようになるんです。プロの世界ではまだ赤ん坊。もちろん、試合に出て活躍するたに練習してましたから、嬉しかったです。でも、なんで私がスタートなんだろう’という思いもあった。試合で使われているのにも関わらず、自分に自信が持てなかったんです。いいパフォーマンスを発揮できて自信がついた時もありましたが、結果が出ないと自信を無くしてしまう。最初の3年間はそんな不安定なメンタルでした。そんな中3年目のシーズンでヘルニアが再発し、シーズン終了後に2回目のオペ。そのタイミングでの監督交代。新しい監督は韓国出身の方でした。当たり前ですが、監督によってバスケスタイルも信念も違う。選手はその監督に合わせないといけない。その大変さを経験した2年間でした。最後は心が疲れ切ってしまい、「もうバスケはいいかな」そう思うようになりました。チームは強かったですし、結果も残していた。私自身も使ってもらえていた。でも、全く心は満たされていませんでした。そういう状況の時に、タイミングよく、リーグ側が移籍ができるルールを設けたんです。そして、当時、私の高校時代の恩師がアイシンAWというチームの監督をしていたのですが、そこに呼んでもらえたのです。そのチームでも、トータル5年間プレーしました。アイシンは当時、強いチームではなく下位チームでした。なかなか勝てない悔しさを味わいましたが、5年間のうち3年間はチームキャプテン、1年間は副キャプテンという立場を経験したり、監督が3人変わったりとたくさんのことを学びました。最後は、脳震盪になり、バスケをするのが怖くなったことで引退を決断。最後コートには立てませんでしたが、神様が辞めるきっかけをくれたんだなと今になって思います。

 

引退後🌏

バスケ一筋の生活だったため、引退後はもうゆっくりしたい!バスケ以外の世界を見てみたい!!!という一心でした。もともと海外に興味があったため、海外で暮らしてみたいな〜と思っていたのですが、英語が喋れない!!勉強した記憶がない!笑なので、休暇も兼ねて、セブ島へ語学留学へ行くことに。もうそれが大正解🙆‍♀️セブの気候、人、食べ物全てが私にぴったり🧡滞在を1ヶ月延ばすほど、大好きでした。その後は一旦日本に帰国し、しばらくしてカナダのトロントへワーホリに。トロントも気に入ったので(行く土地がすぐに好きになる笑)、1年のワーホリ後に観光ビザに切り替えて3ヶ月滞在し、その時期にちょうどパリオリンピックがあったので、最後はフランスに1ヶ月滞在してバスケのオリンピックを現地で観戦に、2024年の8月に日本に帰国。そして、カナダ滞在中にもう一度バスケをしたくなった私は、2年半以上のブランクを抱えながら、帰国後に、愛媛にあるアマチュアのバスケチームに入れてもらうという、なんとも自由奔放な生活をしていました😆さら〜っと引退後のことを伝えましたが、各国ではいろんなことがありました。セブではバイタク(バイクタクシー)で足を大火傷したり、クレジットカードを落としたり。セブからの帰国直後には、愛車が廃車になるほどの大事故にあったり。トロントでは色んなことがありすぎて、、、でも一番ショックだったのはアイフォンを落としたこと(もちろん返ってきませんでした😇)フランスでは、、、お気に入りのイヤホンの片耳がぶっ飛んで溝に落ちて使えなくなったり。楽しいこともたくさんでしたが、アクシデントもありました!でも、それでも生きてる。大抵のことはどうにかなるんです!!!”死ぬこと以外かすり傷” ’”人生全てネタ” これが私の座右の銘です✨✌️そして思います。 人生は私たちが思っているよりもずっと短い。 だから、やりたいと思ったことを行動しよう。 心の声を大切にしよう。時間は戻ってこないから。 そして、何歳になっても夢いっぱいの人生を歩んでいこう。そう思ってます🌈



これが私のこれまでのストーリーです🌸♡
Naokoがどういう人生を歩んできたか、
どういう人か、少しは伝わりましたか??
とにかく、一度しかない人生を楽しむのに必死💪💨です!🤭

メンタルパフォーマンスコーチとしてのNew Chapter も楽しみながら、


たくさんのアスリートに勇気とワクワクを届けていきたいなと思っています🌟

共に挑戦のその先へ———
皆さんにお会いできるのを楽しみにしています!

Naoko

 

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プロバスケ引退後、再び挑戦を始めた私の理由